
春になれば心が弾む。毎年そうだったが、未だに光明が見えない。花見や行楽に恋に、心ウキウキのあの頃が懐かしい。春によくかかる噺に「崇徳院」がある。
出入りの大家に呼ばれた熊五郎、若旦那が恋の病で明日をも知れん容態やという。渋る若旦那から恋のいきさつを聞いた熊五郎。若旦那は数日前に高津神社で出会った女性にひと目惚れ。別れ際にもらった紙に「瀬を早み岩にせかるる滝川の……」と崇徳院の和歌の上の句が書かれていた。下の句「割れても末に逢はむとぞ思ふ」がないのは、いずれ後に会いましょうの意味が隠されていると旦那に事情を説明。と、すぐにも相手を探せ、見つけたら今までの借金は棒引き、別にそれ相当の礼もする。喜び勇んで大阪中を探し回るが見つからない。毎日黙って歩いて探していると言うと嫁に、せっかくの手掛かりがあるのに、なぜそれを使わないのかと叱られる。
で、風呂屋と散髪屋を尋ね歩き、崇徳院の歌を大声で叫ぶ。と、ある散髪屋でその歌が好きなのは、うちの母屋の娘やと棟梁風の男。さあ、うちへ来い。こっちが先やと2人はつかみ合いに。はずみで散髪屋の鏡が割れる。あんたら、どないしてくれるんやと散髪屋。熊五郎「崇徳院の下の句や、割れても末に買わんとぞ思う」。
噺は初心(うぶ)な男女の初恋譚で、ほほえましい限り。歌も百人一首の有名なものだから、歌の作者にもなにやらほのぼのした思いを抱くのだが、実は崇徳院は怨霊になった伝説の上皇。わずか3歳で即位するも、鳥羽上皇が寵愛する藤原得子(なりこ)の子、躰仁親王(後の近衛天皇)を即位させるため、23歳で譲位させられ、自分は上皇に。時あたかも源平の勢力争いのただなか、院政を敷いていた鳥羽法皇が崩御すると、法皇に疎まれていた崇徳院は藤原頼長らと乱を起こす。が、平清盛らに制圧され、讃岐に流される。これが保元の乱(1156年)である。
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その後、様々な迫害を受け、讃岐で崩御。死後、多くの災厄が続けて起こったため、崇徳院の祟りと噂され、恐れた後白河院は怨霊を鎮めるため、保元の乱の戦場であった春日河原に「崇徳院廟(のちの粟田宮)」を作った。
不遇の死後、社会に祟り怨霊になったと恐れられた人物としては、菅原道真や平将門が名高い。が、崇徳院も江戸時代には有名な怨霊で、日本三大怨霊ともいう。
落語「崇徳院」にはそのような怨霊伝説は、微塵も影を落としてはいない。しかし、噺の作者は崇徳院をどのように見ていたのだろう。私は案外、崇徳院を密かに鎮魂する思いを、この噺にこめたのではないのかと思う。でなければ、怨霊になった上皇の和歌を、こんなに楽しくもほほえましい初恋譚に、大切な鍵を握る歌として、はめ込まないと思うのだが、どうだろう。(落語作家 さとう裕)