同じ噺、何度聞いても飽きないのは…ナゼ?

映画や小説と違って落語は同じ噺を何度聞いても飽きないのはなぜなのか。小さな疑問を抱いた落語作家のさとう裕さんは「噺家の『ニン』の違いではないか」と語る。(新聞うずみ火編集部)

以前から気になってはいたが、ずっと放ったらかしてあった小さな疑問、皆さんにもそんな疑問ありません? 落語会に足しげく通っていると、知ってる噺が増えてくる。ああ、これはこの間聞いた。これも聞いた。そんな噺が増えてくる。小説や映画だと、一度見たのなら、もう知ってるからええわとなる。ま、気に入って何度も見る映画や小説もあるが、それは何作もないだろう。好きな歌なら繰り返し聞いても飽きない。ファンになった俳優だからどんな芝居でも見に行く、というのともちょっと違う。

古今亭志ん生

 

六代目笑福亭松鶴

落語の場合、何度も聞いて、ストーリーを覚えても飽きずに聞きに行く。どんな噺でも、特に気にいった噺でなくてもだ。それって、なぜ? 演者も同じとは限らない。というより、噺は同じだが噺家はその都度違う。ここかもしれない。演者が違うから聞ける。いや、演者が違うと余計に聞いてみたい。

桂米朝(上方落語家舞菅より)

 

落語ではニンということを言う。噺家の雰囲気、人柄、人間性等をひっくるめてニンという。漢字は「人」とも「任」ともいい、はっきりしない。ニンの違いが噺の面白さを変える。例えば、六代目笑福亭松鶴の「らくだ」と桂米朝の「らくだ」を聞き比べるといい。さらに古今亭志ん生の「らくだ」。比べてみると楽しい。また、その噺家の解釈で噺が結構雰囲気を変える。ストーリーは同じなのに主人公の描き方や、登場人物一人ひとりのしゃべり方、間の取り方一つでその人物の印象がガラッと変わったり。登場人物の後ろに演者の顔がうっすら見え隠れして、これが話芸を聞く面白さ、醍醐味とも言える。若手の頃は多くの噺を覚え、そこから自分のニンにあった噺を探すのだという。

また、同じ噺なのに聞くたびに出来に差がある噺家もいる。松鶴や志ん生は日によって噺の出来が違ったという。松鶴は、高座に上がって客に受けないと、「今日のお客さんは、このお噺がお好きやないようで……」と、さっと高座を降りてきたという。また、志ん生は酔っぱらって高座に上がって、そのまま寝てしまった有名な逸話がある。誰も志ん生を起こせとは言わず、高座で寝てしまった志ん生を見たと言って、みんな喜んだ。

三代目桂春団治(上方落語協会のHPより)

 

一方、いつ聞いても同じ噺の噺家がいる。それでも楽しい。不思議だ。三代目桂春団治は、ある時期からネタの数を11前後に絞ってしまった。本人は「自分は不器用やから」と述べているが、半世紀以上の噺家人生を、そのネタ数で押し切った。で、いつも出来栄えが変わらなかった。八代目桂文楽も30席程度のネタ数だった。少ないネタ数で押し通せたのも、名人上手ゆえだろう。同じネタを何度聞いても飽きないのは、噺家のニンの違いだけと言っていいのだろうか。小さな疑問が、だんだん大きな疑問になってきた。落語の奥は深いようだ。(落語作家 さとう裕)

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