
政府は、銃撃事件で亡くなった安倍元首相の国葬を9月27日に行うことを閣議決定した。首相経験者の国葬は戦後2例目で、55年前の吉田茂元首相以来となる。根拠法がない中で、「吉田国葬」はどのように決められ、執り行われたのか。なぜ、野党は反対しなかったのか。国会事務局で33年間、参院議員を12年間務めるなど、永田町を知り尽くした平野貞夫さん(87)がその実態を証言した。(新聞うずみ火 矢野宏)
吉田元首相は1967年10月20日、神奈川県・大磯の自宅で死去した。89歳だった。

吉田茂元首相(1878-1967)=首相官邸HPより
「愛弟子の佐藤栄作首相は当時マニラ訪問中でしたが、園田直衆院副議長に電話で『国葬とすべし』と命じました。それが始まりです」
平野さんは当時、園田副議長の秘書だったため、その一部始終を聞いていた。半世紀以上の歳月が流れているが、後に小沢一郎氏に政策提言し「知恵袋」と呼ばれた平野さんの記憶は鮮明だ。
「佐藤首相は『木村俊夫官房長官から(国葬は)法的根拠がないが、貞明皇太后の例を聞いている』と述べた後、『野党の了解を取れば、閣議決定でやれる』『社会党を説得すれば、公明と民社は納得する。今夜中に説得しろ』という内容でした」
貞明皇太后は大正天皇の皇后で、昭和天皇の母。1951年5月に亡くなり、当時の吉田内閣で「国葬とするかどうか」で議論が行われた。「国葬令」は4年前の47年に廃止されていた。吉田首相の判断で「法制がない」ことを理由に、「国葬にはしない」と決めた。と同時に、「皇室の公的予算である宮廷費扱いの準国葬的行事とすることを閣議決定した」という。
佐藤首相は、この貞明皇太后の「大喪の儀」を例に挙げて、「国費によって葬儀を行うことを閣議決定すれば事実上の国葬を行える」と判断したのだ。
■社会党あっさり了承
園田氏は野党第一党だった社会党を説得するため、その日のうちに山本幸一書記長と柳田秀一国対委員長と会った。

当時衆院副議長だった園田直元外相(1913-84)
その時の様子を、平野さんはこう語る。「山本書記長、柳田国対委員長とも反対するでもなく、『園田副議長には大事なことで世話になっているから』と、佐藤首相の意向を了承したのです」
園田氏は、自民党幹事長だった福田赳夫氏に電話で報告した。福田氏が記者懇談会で発言したことで、翌21日の各紙朝刊は「吉田国葬に三野党合意か」と報じた。
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