田端義夫『かえり船』 「オーッス」生涯現役だったバタヤン

  • 2022/9/24

「歌は世につれ世は歌につれ」ということわざがある。歌は世の中の時勢や成り行きにつれて変化し、世の中のありさまも歌の流行に影響されるということ。敗戦から77年。週刊誌でいくつものスクープを放った伝説のジャーナリスト、三谷俊之さんが戦後に流行った歌を通してその時代を斬る。第一回は、バタヤンこと、田端義夫の「かえり船」。(新聞うずみ火編集部)

 

波の背の背にゆられてゆれて月の潮路の かえり船

かすむ故国よ 小島の沖じゃ 夢もわびしく よみがえる

1945年8月の敗戦後、朝鮮半島や中国、旧満州、そして南方から、続々と660万人を超える軍人・軍属、一般人たちが「波の背の背に ゆられてゆれて」「月の潮路に」をたどって帰ってきた。民間船では足りず、戦火を逃れた軍艦の砲を外し、甲板を臨時の居住区にした帰り船も多かった。これらが着く港は舞鶴(京都府)、呉(広島県)、博多(福岡県)など10カ所に決められていた。

この国のあちこちは焦土と化していた。敗亡の兵士たちはもちろん、引き揚げてきた誰しもが着の身着のまま、疲労困憊していた。遠くシベリアに送られた息子や夫、あるいは父の帰還を待つ人々の姿も多かった。復員兵たちの姿が町にあふれだした1946(昭和21)年、焼け跡や闇市に、バタヤンこと田端義夫が歌う『かえり船』が流れた。「オーッス!」という威勢のいい挨拶と水平に構えたギター姿がトレードマークだった。

田端は1919(大正8)年、三重県松阪市の生まれ。3歳の時に父を亡くし、一家は大阪に移る。赤貧洗うがごとき生活だった。副食は紅ショウガだけで飢えをしのいだという。姉は芸者になり、田端本人は慢性的な栄養失調のため右目を失明。小学3年の半ばで中退、薬屋や鉄工所などで丁稚奉公をした。たまたま見た歌手のディック・ミネ(1908~91)がギターを携えて歌うステージに感激。ベニヤの板切れで音の出ないギターを作って河原で歌っていたという。

1938(昭和13)年、姉に勧められるまま歌謡コンクールに出て、見事優勝。ポリドールの専属となり、翌39年『島の船唄』でデビュー。その後『里恋峠』、『大利根月夜』、『梅と兵隊』などヒットを続け、東海林太郎(1898~1972)、上原敏(1909~1944)と並ぶ人気歌手となった。

田端義夫

 

1940(昭和15)年に出した『別れ船』は「名残つきない 果てしない/別れ出船の 銅鑼(かね)が鳴る」と、出征兵士たちの船を見送る歌だった。戦後の46年、テイチクに移籍、すぐにこの『かえり船』を歌い、累計180万枚のヒットとなった。どちらも作詞・清水みのる、作曲・倉若晴生というコンビだ。

作詞の清水は1903(明治36)年生まれ。『星の流れに』(菊池章子)、『月がとっても青いから』(菅原都々子)、『雪の渡り鳥』(三波春夫)などの秀作が多い。作曲の倉若は1912(明治45)年生まれ。『憧れのハワイ航路』『赤いランプの終列車』などの作曲家・江口夜詩に師事。代表曲として『別れ船』『島の舟唄』など田端と清水とのトリオでヒット曲を世に送り出した。出征兵士たちを送った彼らが、今度は敗亡の兵士や夢破れた人々が故国に還るための「うた」をつくった。

田端は、その後『かよい船』『たより船』、そして『玄海ブルース』などのヒットを連発。昭和20年代を代表するスター歌手となった。30年代に入ると一時低迷したものの、奄美大島で歌われていた『島育ち』を自ら推して吹き込んで大ヒット。レコーディングした楽曲は1200曲。2013(平成25)年に94歳で死去する直前まで、ギター片手に「オーッス!」という元気のいいかけ声とともに生涯現役歌手として生きた。(ジャーナリスト 三谷俊之)

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