
「最近、テレビを見てたら、覚えのあるロシア語やウクライナ語がよく出てくる」とは根室市の長谷川ヨイさん(88)。択捉島の出身。「アザラシを男の人がこん棒持って殴り殺して獲ってくる。おいしい肉だったわ。特に掌がおいしいの」と懐かしむ。
ソ連軍の侵攻後は将校の妻が、当時小学5年生だったヨイさんを可愛がってくれた。
「よく家に遊びに行きました。熊が出るところを歩く時は、夫婦が守ってくれました。日本に強制送還されるとき、私を抱きしめて泣いた彼女はウクライナ人でした」
当時20歳過ぎで、生きていても100歳近い。ウクライナにいるのかもわからない。それでも長谷川さんは「心配でたまりません。何とか助けたい」と話していた。
野付半島の根元、標津町に住む福沢英雄さん(81)。引き上げ後、小学校職員を退職し、NHK通信員の後、北海道新聞の通信員。今も現役だ。
福沢さんは多楽島の出身。
「小さな島だが良質の昆布などに恵まれ、人口密度は北方4島で一番高かった」
自宅で多くの写真を見せてくれた。ビザなし交流などで16回も島を訪問し、島のロシア人を何度も自宅に泊めた。
「踊りや歌が好きで楽しい人たち。お土産のマトリョーシカは家に置き切れないほどです」
1945年夏、大きな黒い船がやってきた。
「3人の兵隊が土足で上がってきた。いらだち、両親にわめき出した。5歳の私は怖くて母親にしがみついていました」
恐怖から始まった福沢さんの「ロシア体験」。後年、せっかくロシア人と親しくなりながら、ウクライナ侵攻の無慈悲な姿を見せられる今、複雑な思いでいる。
知床半島付け根の羅臼町へ車を走らせた。薄曇りだったが雪景色の国後島が見えた。
「国後展望台」に来てくれたのが千島連盟の脇紀美夫理事長(80)。元羅臼町長の脇さんは国後島で戦後、3年近くロシア人と混住した。
「国後や択捉の人の強制送還は遅かった。ロシア人の子供と石蹴りなんかして遊んでいました」
参考記事:ロシアのウクライナ侵攻で遠のく北方領土問題(中)
北海道へ引き上げたのは小学1年の時。脇さんは経済優先の安倍外交に疑問を抱いていた。「元島民の土地の上でロシアと経済活動するとはどういうことか。旧漁業権も残置財産の補償もされていないのに」といぶかる。
そして「ロシアとは2年や3年は交渉もできない。10年も経てば島民一世は誰もいなくなる。北方領土返還運動が元島民だけのテーマのようになっていることがおかしい。国土が奪われたのです」と訴えている。
停滞を余儀なくされた平和条約交渉。この間にじっくりと交渉術も練り直すべきだ。