大阪城に残る軍事遺産(8)大阪城天守閣の復興のための寄付金で新築した「旧陸軍第四師団司令部庁舎」

大阪城

京都ミニ―ツアー「まいまい京都」が主催する「大阪城に残る軍事遺産」ツアーに同行し、大阪城天守閣のある本丸へ。そこには二つの「城」があった。(新聞うずみ火 矢野宏)

大阪城天守閣がそびえる本丸にはもう一つの「城」がある。ドイツの古城を模した地下1階地上3階(中央部分4階)の「旧陸軍第四司令部庁舎」(現ミライザ大阪城)で、左右対称のロマネスク様式よる重厚な建物として建造され、現在も当時の姿を残している。

竣工したのは、天守閣が復興された1931(昭和6)年。

発端は3年前の大阪市議会で、当時の関一市長が昭和天皇の御大典記念事業として天守閣復興と本丸一帯の市民公園化を提案、全会一致で可決された。

建設費は大阪市民の寄付で賄うことになったが、不況下にもかかわらず目標額の150万円(現在の約750億円)はわずか半年たらずで集まった。

案内役の武庫川女子大名誉教授の三宅宏司さん(77)は「大坂城天守閣の復興のために集められた寄付金150万円のうち80万円が第四師団司令部に使われました。大阪城の全域が陸軍用地だったので、陸軍は天守閣の復興を認める交換条件として司令部庁舎の新築を要求したのです」と説明する。ちなみに、天守閣の建造にかかった費用は47万円で、残りの23万円が公園整備費に充てられたという。

当時の第四師団司令部は1885(明治18)年に和歌山城から大阪城本丸に移築された二の丸御殿(通称・紀州御殿)を使用していたが、老朽化し手狭だった。近代的な司令部庁舎を建設したいと考えていた陸軍にとって、大阪市からの天守閣復興の話は渡りに船だった。

1940(昭和15)年には、中部軍管区司令部の庁舎となり、第四師団司令部は大坂城二の丸へ移転した。

三宅さんは、私たちの足元を指さし、こう語った。「太平洋戦争末期、陸軍は本土空襲に備えて司令部前一帯に地下壕を掘ります。延べ300メートルほどの地下壕で、戦後、この地下壕はある程度埋められてしまいました」

終戦後は占領軍に接収され、1948(昭和23)年に返還された後は大坂市の施設となり、「大阪市警視庁」(現大阪府警察本部)、60(昭和35)年からは市立博物館として使用された。閉館後は廃墟状態となっていたが、民間会社が管理し、2017年からレストランやカフェなどが入る複合施設「ミライザ大阪城」として利用されている。

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