
特攻隊員は出撃前に覚醒剤を与えられていた――。太平洋戦争末期、学徒動員で覚醒剤入りチョコレートを包んだという女学生の体験を聞いた元教員の相可(おおか)文代さん(71)=大阪府茨木市=が調査を重ね、まとめた冊子が注目されている。「15年戦争研究会」主催の講演会が3月6日に大阪市内であり、相可さんは「戦争を美化する動きに対抗するためには、まず戦争の悲惨な実態を知ることが大事だ」と訴えた。(新聞うずみ火 矢野宏)
冊子のタイトルは「『ヒロポン』と『特攻』――女学生が包んだ『覚せい剤入りチョコレート』――梅田和子さんの戦争体験からの考察」。きっかけは2016年9月、教職員組合主催の平和学習会で大阪府高槻市在住の梅田和子さん(91)から戦争体験を聞いたことだ。

冊子「『ヒロポン』と『特攻』」
梅田さんは戦争中に大阪市から高槻市へ疎開し、1945年1月末に府立茨木高等女学校(現・府立春日丘高校)に転校した。校内には陸軍糧秣廠(りょうまつしょう)大阪支廠の支所が置かれていた。運動場に小さなプレハブ小屋が2棟建てられ、その一軒で覚醒剤入りチョコの包装作業が行われていた。女学生らは15㌢ほどの棒状のチョコを薄紙で包み、箱詰めする。チョコには菊の御紋が付いていた。
転校初日、梅田さんは包装作業をしながら女学生らを監督するよう命じられた。「チョコを盗む生徒がいるので、監視して報告せよ」
その日、梅田さんは上級生らに校舎の屋上に呼び出され、持ち出したチョコを食べるように迫られた。一口食べると、カッと体が熱くなり、薬物が入っていると思ったという。上級生らは「特攻隊員が最後に食べるものだ」と言い、先生に言うなと口止めした。帰宅して話すと、父は「ヒロポンでも入っているのではないか」と疑念を抱いた。
ヒロポンは、大日本製薬が41年に発売した覚醒剤。製品名について、相可さんは「『ヒロウ(疲労)がポンと回復する』からではなく、『仕事を好む』という意味のギリシャ語です。強い覚醒作用と興奮作用を持つため、航空兵のみならず、徹夜作業の労働者にも積極的に提供されました」と説明する。戦後民間に出回り、大量の中毒患者が出たため、50年に生産中止。翌51年には覚醒剤取締法が制定され、厳格に規制されるようになった。
相可さんは「教員として教え子を送り出していた高校が軍需工場だったこと。特攻隊員に与える覚醒剤チョコを女学生が包装していたことに衝撃を受けました」と振り返る。
事実を知るため、最初に手に取ったのが「50年前日本空軍が創った機能性食品」(光琳)。元陸軍航空技術研究所(東京・立川市)の研究員、岩垂荘二氏が92年に刊行した著書だ。戦時中、航空隊の携行食開発に従事しており、ヒロポン入りのチョコを開発したとの話が記されていた。
「43年ごろ、ドイツ空軍がヒロポン入りのチョコを飛行士に食べさせたところ効果が大いに上がっている」との報告があった。岩垂氏は上官から命じられ、「棒状のヒロポン入りチョコをつくって特別に補給した」などと書かれている。

15年戦争研究会主催の講演会
さらに、新井喜美夫著「『名将』『愚将』大逆転の太平洋戦史」の中に、「ヒロポンが大量に供給され、回りをチョコレートでくるみ、菊の紋章を刻印したものを、定期的に軍に納めていた」という一文を見つけた。
「航空戦がもっぱら『特攻』になると、特攻隊に出撃前に与えられるようになったようです。(チョコやタバコの)菊の紋章を見た特攻隊員は、天皇の期待を感じ取っただろうし、覚醒剤効果で恐怖心はかなり軽減されていたのではないか」と相可さんは推測する。
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