「お菊の幽霊の色っぽいこと」忘れられない三代目桂春団「皿屋敷」

テレビが普及し出した昭和30年代、寄席中継も多かった。客席にカメラを据え付けて映すだけだから、それほど費用も掛からなかっただろうし、娯楽に飢えていた視聴者にも喜ばれた。
もっと前、ラジオ放送全盛の頃、初代春団治がラジオに出演すると言ったら、興行関係者はこぞって反対した。タダで落語が聞けると寄席に誰も来なくなると。それを押して春団治がラジオに出ると、案に相違して春団治見たさに、客がわんさと劇場へ押し掛けた。それ以降マスコミに芸人がどんどん出演するようになった。
30年代、関西の寄席は漫才が中心。テレビでよく見かけ記憶に残る落語家は三代目林家染丸。

戦後絶滅寸前と言われていた上方落語界にあって、1957に結成された上方落語協会の初代会長でもあり、画面に登場するや満面の笑みで客を魅了した。どんだけええ人やと子供心に思っていたが、後年、聞くところでは高座の笑みは営業用で、楽屋ではすごく弟子に厳しかったらしい。

その後、落語のテレビ番組は徐々に減少し、たまに大喜利(現在の「笑点」)を見るぐらいで、だんだん私は落語とは疎遠になった。本格的に落語と接するようになったのは、20代中頃、北御堂で開かれていた「上方落語を聞く会」に足を運ぶようになってからだ。この会の発起人は木津川計さんで、101回目からは岡田俊逸さんという高校の先輩が代表世話人をしていた。余談だが、この会のパンフが発展して後の『上方芸能』になった。

三代目桂春団治

その会で、忘れられない出会いがあった。三代目春団治の「皿屋敷」。生で三代目を見るのも初めてなら、「皿屋敷」も初めて。この「皿屋敷」が絶品だった。映画や芝居で「皿屋敷」は知っていたが、落語のそれは展開が違う。

旅から帰った松が、地元にあるらしい皿屋敷を知らず、恥をかいたと六兵衛親父のもとへ。地元では車屋敷と言い、今も毎晩お菊の幽霊が出るのだという。で、みんなで見にいくことに。ただし、お菊が皿を読む数、9枚を聞いたら震え死に死んでしまうと。それなら7枚ぐらいで逃げ帰ったらええやろと、みんなで車屋敷へ。そこで見たお菊のあまりの美しさに明晩も行こうと。連日行っていると評判になり、近郷近在から人が押し寄せ、お菊の井戸の周りにはダフ屋まで出る始末。待っているとお菊が登場。が、今日は声の調子がおかしい。すると9枚どころか10枚11枚……と、18枚も数を読む。理由を尋ねるとお菊の幽霊、「2日分読んどいて明日の晩、休みますねん」

春団治のお菊の幽霊の色っぽいこと。また、お菊を初めて見に行く連中の、幽霊は見たいけど9枚の声を聞いたら震え死ぬので怖い。その怖いもの見たさの皿屋敷までの道中の心理描写が秀逸。怖さが面白さとなり笑いが生まれ、そこからどんどん盛り上がってオチへと続く展開の見事なこと。

三代目は羽織を脱ぐ美しさに定評があったが、お菊の幽霊の所作もあだっぽくて美しい。こんな幽霊なら会ってみたいと胸がキュンとなり、私はまたまた落語に魅入られてしまった。ただ面白いだけが落語やないとを教えられ、その上、落語とは何ぞや? という、大いなる疑問とも出合ってしまった。(落語作家 さとう裕)

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