大坂は初代桂文治、江戸は岡本万作 寄席の始まりは東西とも大坂の芸人だった

小中学校時代、昭和30~40年代、関西に落語専門の寄席小屋はなかった。とはいえ、寄席自体がなかったわけではない。大阪道頓堀に角座が、梅田や難波、京都には吉本の花月があった。神戸には神戸松竹座、天王寺の新世界には新花月があり、こちらは松竹芸能の寄席だった。

 

当時も今も、寄席は漫才が主流、落語は色物扱い。昭和40年代に若き笑福亭仁鶴や桂三枝(現・6代目文枝)が、ラジオやテレビで活躍しだすと、落語界に入門者が殺到、あっという間に若い噺家が激増した。結果、各地に地域寄席が生まれ、上方落語協会の島之内寄席が6代目松鶴の肝いりで誕生。が、2006年に天満天神繁昌亭が出来るまで、上方落語の定席は関西にはないままだった。

 

では、上方落語の定席(寄席)は、いつ頃生まれたのだろう?

 

話は江戸・元禄時代にさかのぼる。京阪に露の五郎兵衛、米沢彦八が出現して上方落語が誕生するが、初代彦八の死後、大坂の落語界は衰微したという。と、京都に2代目米沢彦八が突如出現。この2代目は初代とつながりがあるのかないのか、はっきりしないようだが、なかなかの芸達者で京都で人気者になる。2代目彦八の弟子たちが名跡を継ぎ、4代目彦八まで確認できるという。しかし、この後しばらく、上方の落語界はどんな人が活躍したのか、あまりよく分からない時代が続く。

 

時が移り、寛政(1789~)から文化(1804~)の頃、大坂で会咄というものが流行しだした。これまでの大道での辻咄ではなく、「料亭や宿屋に席を借りた座敷咄あり、出演者も素人ばかりであった」と、前田勇著『上方落語の歴史』には出てくる。さらに、この頃から落語は「軽口」から「落し咄」と名称も変化したようだ。軽口とは、「実の咄を口軽にいう事なり」(前著)といい、落し咄はオチを重視したという。

初代桂文治

 

会咄は素人が主流だが、中で名人と言われたのは幇間(たいこもち)であろう、と前田勇は述べている。辻咄は道行く人が相手。軽口が落とし咄になり人気が出ると、大道でなく座敷でゆっくり聞きたくなるのが人情。そうなると、落ち着いて長い咄が出来るようになる。演者もじっくり聞いてもらえるので余裕が生まれる。で、現在の落語へと続く長咄が生まれた。

 

さて、会咄の隆盛に刺激を受け、寛政6(1794)年頃、大坂に初代桂文治が現れ、難波の坐摩(いかすり)神社(通称・ざまじんじゃ)の境内に、定席の咄小屋を持ったといわれる。彼は素人連中とは一線を画し、鳴り物入り、道具入りの芝居噺を得意にし、派手に陽気に演じたようだ。今も高座にかかる「蛸芝居」や「昆布巻芝居」等、初代文治作と伝わる噺も幾つか残る。著作も、『臍の宿替』5巻など、数種類残っており、『桂の花』には「皿屋敷」の原形も見えるという。

 

一方、江戸では岡本万作という者が、寛政10年6月に大坂から江戸に下り、神田豊島町藁店(わらだな)に「頓作軽口咄」という看板を上げた。これが江戸の寄席の始まり。ちなみに、頓作の頓は頓智、頓才の頓で、機知に富むとか、即興という意である。さて、こうして見てくると、東西とも寄席の始まりは大坂の芸人によるものだった。(落語作家 さとう裕)

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